言いにくいことを書くぶろぐ

一人の人間として吐露したかった事を書き連ねるぶろぐ

独り 途方もなくしょうもない事で精神を削られた時

道行くすべてを不安に思うのは何故だろうか。

 

びくびく思う自分と

それを支える自分と

 

ひとつふたつ 空元気を出してみれば

返ってくる反応に安堵していたりする。

 

きっと不安に思う気持ちは未来永劫変わらないが、

温かくしてもらって救われた分は この世に還元したい。

10回崖から突き落とされたら、11回這い上がる。

"きれいごと"でも"偽善者"でも何でもいい。立ち上がれない時は翼を労わりその時を待つ。

 

色の無い空虚を超えて 私はただ今を生きている。

No title

不安が確信に変わった時

もう戻れなくなった時になって初めて後悔する。

「私に出来たことがあった」と傲慢な思いを抱えて涙を流す事は何と滑稽か。

ただでさえやるべき事を多く抱えて

その歩みを己に関係しない事で止めるとは非合理極まりない。

 

あまつさえ結果が出ていない事であるから余計に滑稽だ。

反転する未来を想像できないほど愚かな頭は持っていないのに

暗雲に呑まれ立てなくなるとは情けない。

お前の頭は何の為に在った。私の頭は何の為に逢った?

 

休めばまた飛び立てる事を信じて

今はまだ眠るしかないだろうか。

 

己の翼を己で汚した鳥は何処へ飛び立てばいいのか分からない。

意思を置き去りにする思考

止められない思考が嫌いだ

考え始めたら止められない思考が嫌いだ。

何かに触れた時、自動で構築されていく思考が、

「今は別の事をしたい」という意思を反映してくれない思考が、

自分で自分を置き去りにする思考が嫌いだ。

 

元々考える事自体は好きだ。深く突き詰めて原因や対策を見つけたり

問題を分解して整理し向き合う事は自分を一歩先へと進めてくれる。

ぐるぐる悩むという事は無く、全ての思考は終着点へと突き進む。

問いは問いでは終わらない。議題は一つとは限らない。

 

誰へと共有されもしないその解が、その景色が、私を違う世界へと引き上げる。

確かにそれは有意義で、甘美で、ある種特技と言っても過言ではない。

 

しかしそれは、あくまでも「自分の為に」する事であって

「他人の為に」考え始めるのは苦痛でしか無い。

他人の為に力を使うのはそうしたいという「意思」がある時のみ快楽と成り得る上に

その快楽も最終的な成功報酬として相手に支払われて得られるものだ。

報酬が無ければ気力は尽き果てやがて動けなくなる。

 

過大な奉仕は身を滅ぼす。そんな事を望んでいる人間は何処にも居ない。

思考が止まらぬなら、思考し始める要因を取り除く他は無い。

 

そうして私はそっと、君の通知をオフにする。

受け入れるという空虚

 無かった事にされる「ショック」

私は受け入れる事が得意だ。

それを失ったら何が出来るのかと問われるレベルで

突出して秀でていると自覚している。

 

嘘だ と突き放す事も

嫌だ と反発する事も 通常の人間より少なく生きて行けるだろう。

 

しかしそれは「得意」であって「気質」では無く、

自身の意思に関係なく行使されてしまう非常に空虚なものだ。

 

 人の言葉に、提示されたものに、なされた行為に

 

どれ程のショックを受けようとも

どれ程のダメージを受けようとも

 

気付いた頃には何も感じなくなってしまう。

 

傷ついた気持ちも 溶け散った時間も

何も無かったことにはならないというのに

 

何故か穏やかに 時に温かに

全て受け入れる気持ちに様変わりしてしまう。

 

あの時の悲しみは あの時の怒りは

まごうことなくそこに存在していた筈なのに、

誰にも否定できない確かなものであった筈なのに。

 

時間が経つといとも簡単に覆り、無かったかのようにされる。

禍根も悔恨も残さず矯正されてしまう。

自分の気持ちに嘘をつく訳でも、覆い被して隠す訳でも無く

感情は取り除かれ無かったことにされる。

 

傷を受けたという記憶だけが、そこに残る。

時が過ぎたという記録だけが、そこに残る。

 

自分自身に奪われた感情が戻ってくる事は無く

ただただ空虚が広がってゆく。

 

確かに私は平穏を望んだ。

確かに私は感情を悔やんだ。

 

しかしそれは無くして良いものだったのか?

果たしてそれは自身に良い行いだったのか?

 

善意は善意で返したいという気持ちは

努力は努力と認めたい気持ちは

自身の感情より優先して処理されるべき事項なのだろうか。

 

問えども答は返ってこず、空いた部屋には何も入って来ない。

がらんどうの心を抱えながら 涙の跡だけを数え

今日も私は平穏に生きてゆく。

羨望と嫉妬の欠落

負の感情の欠落

人を羨ましい、妬ましいと思う感情がある。

きっとそれは多くの人に沢山訪れる感情なのだと思う。

 

とても残念な事に、私にはその感情があまりにも欠落している。

 

こう言うと「欠落」と表現するのはおかしい。ただの自慢だ。と感じるかもしれない。

だがとても残念な事に、私にはこれが「欠落」以外の何物にも感じられない。

 

人間らしいと言われる「負の感情」があまりにも自分に足りない時、

私は自分が人間なのかどうかを疑わしく思う。

 

睡眠を欲し、腹が減り、血が流れ涙を落とすこの身体で、

周囲の人間と同じ構造を持って生まれた筈のこの身体で、

考え方や感じ方だけが著しく他人とすり合わない事が酷くおぞましい。

 

いっそ化け物だと言われた方が合点がいく程、

既に死んでいるのだと告げられた方が安堵する程、

世の中との違いに日々苦しみ生きている。

 

そうして尚、「普通に擬態」し生きていく。

悲しいのは、それが自分に容易に出来てしまった事に他ならない。

 

人間に擬態した化け物は、幸せになれるだろうか。

私にはまだ、分からない。

1割の人間に立つ孤独

作品に満足できないマイノリティ

惜しいと思ってしまう作品がある。

多くの人が熱狂し、多くの人が称賛する作品で、

「ここがこうだったら」「この間にこれがあったら」そう思う作品がある。

 

作品が悪い訳では無い。多くの人はそれで満足しているのだから

その作品は間違いなく成功と言えるだろう。

 

作り手が満足したものを作り、受け手の大多数がそれを幸せに享受できたのならば

その作品は素晴らしいし評価されるべきだと言えるだろう。

1割の人間が不満を感じようが感じまいが、9割の人間の満足度が変わらないのであればそれ以上追及する必要性はきっと無いだろう。

 

そんな事を考え、何故その満足に感じられない1割にいつも属するのかといつも思う。

 

1割に属すると孤独だ。

周りは9割の人間に溢れ、視界は肯定的な意見で埋め尽くされる。

自分の不満の意見を出せばその人々が悲しむ事は想像に難くない。

 

空気を読まない人間であれば良かったのだが、生憎そう都合よい性格を持って生まれては来なかった。

他に捌け口があれば良かったが、適する相手も場所も選ぶ事が出来なかった。

 

私は私を抑圧する事でしか、自分の居場所を守る事が出来そうになかった。

酷く脆く惨めで、哀れな生き物でしかなかった。

 

1割に属するのは、何も作品に対する時だけではない。

様々な事象で巻き起こる論争や、生きてきたその生い立ちへの価値観で。

どれを選びとってもマジョリティにはなれそうもなかった。

 

唯一マジョリティとして確立しているのは性別くらいなものだと思うが、

それもまだ曖昧で不明瞭で、実に空虚なものでしかなかった。

 

ここまで来たら一生孤独を傍に置いてみようか。

そんな事を思い、また闇に飲まれる。

はじめに

【 はじめに 】

書き手としての名前も決まっていない状況ではあるが、

このブログのスタンスをまず明確に記しておきたい。

 

まず私は大人だ。何をもって大人と言うかはそれぞれあると思うが、

ここでは「成人とされる年齢を満たしている」という事と

「自分の気持ちを隠して関係が上手く成り立つ様に返答をする」という

2つの事柄を持って自分を大人と表現させてもらう。

 

大人になるとは悲しいものだ。

相手の気持ちを思いやり、尊重し、傷つけまいとすればする程に

自分の心を蔑ろにしてしまう。

 

自分が傷つかない様にと、弱点や本音を隠せば隠すほど個性を失ってしまう。

 

獲物に逃げられない様にと爪を隠していた鷹は、いつの間にか爪をへし折られない様にそれを隠すようになった。

 

人は自分の意見を言うのに「正当性」を盾にするようになった。

「私は正しい事を言っている」と武器を握り発言しなければいけなくなった。

無防備にただ願望を言う者は「無害」でも殴られるようになった。

どちらが正しいかは、もはや関係無い世界が広がった。

 

自分の思想を言語化するのに、正当性は必要ないと思う。

「女性として」「被害者として」そんな風な文句をつけて

何かの代表として物事を言う必要も無いと思う。

 

私は一人の人間として、一個人として。

ただ、思っている事を自由に書きたい。ただそれだけのブログをここに開く。